元皇子の仕立屋 11890年、アメリカ・ニューヨーク。貴族をはじめとする富裕層が多く住むこの地域の一角に、その店はあった。 店のショーウィンドウには、今流行のドレスとスーツを着たマネキンが飾られていた。 「いらっしゃいませ。」 店のドアベルが鳴り、美しいモスリンのドレスに身を包んだ少女と、彼女の母親と思しき女性が入って来た。 「ここが、有名な紳士服と婦人服のお店ね。娘が今度社交界デビューすることになったから、そのドレスをお願いしたいの。」 「どうぞ、こちらにお掛けになってお待ち下さい。」 「えぇ。」 母娘が店の応接室のソファに座っていると、そこへこの店の主人が彼女達の前に現れた。 「まぁ、あなた何処かで見た顔ね?」 「そうですか、良く言われます。」 そう言った店の主人は、母娘に愛想笑いを浮かべながら、妻の帰りを待った。 「只今戻りました。」 ドアベルがチリンと再び鳴り、店の中に主人の妻である女性が入って来た。 長い黒髪をシニョンに結い、夫と同じ瞳の色のリボンを結んでいる女性は、今パリで流行最先端の、膨らんだ袖のドレスを着ていた。 「いらっしゃいませ。今日はどのようなご用でしょうか?」 「ねぇ、ご主人の顔、やっぱり何処かで見た事があるわ。」 「まぁ、そうですか。」 「ねぇお母様、わたし少し大人っぽいドレスが着たいわ。」 「まぁナンシー、今までのデザインのドレスの方が素敵じゃないの。」 「わたしはもう15なのよ、お母様。子供っぽい幼稚なデザインはもう飽きたわ。」 少女の言葉を聞いた女性は、思わず噴き出してしまった。 「どうしたの?」 「いえ・・娘も、この前同じような事を言っていたなと・・」 「まぁ、娘さんがいらっしゃるのね?」 「えぇ、もうすぐ10歳になりますわ。」 女性がそう言った時、裏口のドアがけたたましい音を立てた。 「お母様、ただいま!」 「まぁ千歳、お客様がいらっしゃるときは静かになさいといつも言っているでしょう?」 「ごめんなさい・・」 そう言って女性達の前に現れた少女―千歳は、まるで叱られた仔犬のような顔をした。 「あらあら、可愛いお嬢さんね。」 「千歳、お母様はこれからお仕事だから、終わるまでお部屋で宿題でもしていなさい。」 「わかったわ、お母様。」 「お父様似なのねぇ。将来美人に育ちそうね。」 「えぇ。だから主人は、“あいつは絶対に嫁にはやらねぇ”って、息巻いているんです。」 「わかるわぁ。」 母娘と妻の賑やかな会話を聞きながら、店の主人は時折口笛を吹いて数月前にさる資産家の老人から注文を受けた紳士服の仕上げに取り掛かった。 「これで良し、と・・」 彼はそう言って額の汗を拭っていると、店の前に一台の馬車が停まり、その中から一人の男が降りて来た。 足元を美しく隙がない程磨き上げられた漆黒の革靴で飾り、襟元に黒貂の毛皮がついた外套を纏った男は、優雅かつ緩慢な動作で目深に被っていたシルク=ハットを脱いだ。 「商売は順調のようですね。まぁ、貴方程の方なら、必ず成功すると思っていましたけどね。」 男は、そう言うと美しい碧の瞳で店の主人を見つめた。 「ここへは何を?」 「そんなに警戒しないで下さい・・歳三兄上。」 「まさか、お前が生きているなんて思わなかったぜ、ルドルフ。」 男と主人の、碧と紫の瞳がぶつかり合った。 「そんなに睨むな。こうして再会出来た事だし、昔語りでもしようじゃないか?」 男はそう言うと、長椅子の上に腰を下ろした。 彼の名は、ルドルフ=フランツ=カール=ヨーゼフ=フォン=オーストリア―マイヤーリンクで男爵令嬢と“心中”した、悲劇の皇太子その人である。 男―ルドルフは、ぐるりと店内を見渡した後、さも当然だと言わんばかりに、歳三に飲み物を頼んだ。 「おい、俺達は今仕事中で二人共手が塞がっているんだ。何か飲みたいなら、向こうのカフェにでも行け。」 「つれないな、兄上・・」 「お父様、お客様ですか?」 軽やかな足音と共に、本を抱えた娘が二階の自室から降りて来た。 「千歳、どうしたんだ?」 「算数の問題で、わからないところがあるの。」 「代数か・・」 娘が歳三に見せて来たのは、よりにもよって彼が苦手な代数の問題だった。 「へぇ、代数か。懐かしいな。」 「お父様、こちらの方はお客様なの?」 「まぁな・・」 「おや、可愛いお嬢さんだ、お名前は?」 「千歳と申します。」 「チトセ、か・・良い名をつけたものだな。さぁチトセちゃん、おじさんが勉強を教えてあげよう。」 「ありがとうございます!」 「この公式を、ここに当てはめたら、簡単だ。」 「本当だ。ありがとうございます。」 「それでは、ドレスが仕上がったら、こちらからご連絡致しますね。」 「今は電話があるから便利ね。それに、ミシンも。」 そう言ったミリガン男爵夫人は、娘と共に店から出て行った。 「またのお越しを、お待ち申し上げております。」 千鶴は二人に向かって深々と一礼し、彼女達が乗った馬車が角を曲がって見えなくなるまで、そのままの姿勢で居た。 「あら、お客様ですか?」 「久しぶりだな、チヅル。」 「ルドルフ様、お久しぶりです。」 そう言った千鶴の顔は、引き攣っていた。 余り彼との再会は、彼女にとって喜ばしくないようだった。 それもその筈、千鶴とルドルフとの間には、歳三と結婚するに至るまで、“色々と”あったからだ。 「仕事が一段落したところですし、皆さんでお茶でも頂きましょう。」 「そうだな。」 「お父様、お茶をするのなら向かいのベーカリーでチェリーパイとミートパイを買って来てもいい?」 「わかった。気を付けて行くんだぞ。」 「やったぁ!」 歳三からパイの代金を貰うと、千歳は嬉しそうにスキップしながら、ベーカリーへと向かった。 「あの時の子供か・・産まれた時は、あんなに小さかったのに。」 「また昔話か?」 「いいだろう、別に。」 「ルドルフ様、余りお二人を困らせてはいけませんよ。」 そう言いながら店に入って来たのは、黒髪の青年―ルドルフの恋人・アルフレートだった。 「お久しぶりです、トシゾウ様、チヅル様。」 「誰かと思ったら、元宮廷付司祭様じゃねぇか。」 「おやめください、その呼び方は。今は別の仕事をしています。」 「どんな仕事を?」 「ルドルフ様の秘書です。ルドルフ様は、現在NYで・・」 「後で詳しくわたしの方から話そう。それよりも先に、歳三兄上、あなたにひとつ仕事を頼みたい。」 「仕事?」 「わたしは、お茶を淹れてきます。」 千鶴は気を利かせてそう言うと、奥へと引っ込んだ。 「お母様、ただいま帰りました。」 「お帰りなさい、パイはちゃんと買えた?」 「えぇ。店のおじさんが、ジンジャークッキーをおまけにくれたのよ。」 「そう。ちゃんとおじさんにお礼は言った?」 「言ったわ。」 「手を洗って、お母様を手伝って。パイを食べるのは、それからよ。」 「わかったわ!」 (ルドルフ様は、どうして今頃、わたし達に会いに来たのかしら?) 千鶴はそんな事を思いながら、夫・歳三と初めて会った時の事を思い出していた。 あの時、彼女はバイエルンの、小さな農村に暮らす、孤児だった。 1867年、バイエルン・シュタルルンベルク湖畔。 雪村千鶴はその日、幼馴染の藤堂平助とアルフレート=フェリックスと共に、“ある役目”をおおせつかり、皇帝ご一家のお屋敷へと向かっていた。 「皇妃様って、どんな方なんだろうな?」 「さぁ・・」 「早く行こうよ、二人共!遅くなったら怒られるよ!」 千鶴達がそう言いながら湖の近くへと差し掛かると、突然銃声が聞こえた。 「何、今の!?」 「行ってみようぜ!」 「待ってよ、二人共!」 三人が銃声のした方へと向かうと、そこには頭から血を流して倒れている貴族の男の姿と、その前にしゃがみ込んでいる二人の少年の姿があった。 「君達、そこで何をしているの?その人、まさか・・」 「君、名前は?」 そうアルフレートに尋ねたのは、少し癖のあるブロンドの少年だった。 彼は、冷たい光を湛えた、澄んだ蒼い瞳でアルフレートを見つめた。 「僕は、アルフレートだけれど、君は・・」 「おい、誰か来るぞ。」 そう言ったのは、漆黒の髪と紫の瞳を持った少年だった。 数秒後、向こうから慌しい足音が聞こえて来た。 「ルドルフ様、どちらにおられますか~?」 |